ポチよ 泣かないで
赤い龍
広田が数冊の漫画本を持って見舞いに来てくれた。本の間に小さな「赤い本」がはさんであった。漫画はたちまち読んでしまい、時間を持て余すと「赤い本」につい、目を通してしまった。
その本は、社会の仕組みに反発する力と、やたら妄想を駆り立てる不思議な書物だった。信(まこと)は悪い癖でその中の言葉を何回も繰り返していた。頭の中に急速に革命思想が入っていった。
退院して半年経った。信(まこと)はいつの間にか同志として取り込まれ活動していた。同志たちが、九州の各地の支部からぞくぞくと集まって来た。今まで孤独に過ごして来た信(まこと)が、集団の中で一つになって行動していく事に、始めて心地よい感覚を覚えた。
それから次第にデモやチラシを貼る活動に、日々明け暮れるようになった。 社会や世の中全てが、矛盾に満ちた意地の悪い存在に見えた。会社の経営者や知的生産に携わる人が、労働者の上前をハネる、汚くずるい存在に見え(こんな世の中なんてぶち壊してやりたい…)と、とてつもなく激しい危険な衝動に駆られていた。
ある日、会社の門に集中的に貼ったビラから、社内に左翼の人間がいることを勘付かれ、突然、信(まこと)は退社を宣告されてしまった。
やがて連絡を受けた母が驚いて寮に現われた。革命思想に洗脳され、かたくなに退社を拒む闘争的な我が子の姿があった。「入ったばかりの中卒の新社員たちも引きずり込んで、悪い影響を与えてしまった」ことを聞いた。
「ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」 チカは入社する時にお世話になった人達に、何度も頭を下げて謝った。
チカは強制的に寮の荷物をまとめさせて、逃げるように我が子を引き取っていった。 信(まこと)にとって母の表情は、今までに見たことがないほど険しく悲しげに沈んでいた。
妻チカの話を聞いた父の正喜は、信(まこと)を前に座らせ、何とか洗脳を解こうと説得したが、もはや無駄だった。
「信(まこと)!このバカ野郎!、お前のような社会の秩序を乱す不平分子は、昔なら銃殺刑にされるところだぞ!」その横でお膳の上に顔を伏せていたチカは、髪を振り乱し、目を真っ赤にして泣いていた顔をあげて、悲しそうに信(まこと)を見た。
激しく叱られる信(まこと)を不憫に思い、 二階で寝ていたゼンが堪えかねて階段を降りて来た。大きな声で怒鳴る父親に「正喜!そげんきつう、信(まこと)ば叱らんで良かやないか!」
「何言いよるな婆ちゃん、あんたが信(まこと)ば甘やかすから、こげん風になったっちゃろうもん!」 父が言い返した。 ゼンは寄ってたかってみんなから責められる信(まこと)をかばいながら「ほら、信(まこと)、逃げろ逃げろ」信(まこと)を無理やり立たせて二階に逃がしてあげた。
ゼンは昔のように二つ並べて布団を敷いていた。危険なアカになってしまった孫を横に寝かせてから、しばらく言い訳じみた信(まこと)の話を聞いていた。「うーん…そうじゃろうかねー…」天井を見ながら答えていたが、思想的なことなどゼンに判る筈が無かった。家族の全員がこれ程、悲しんだことは無かった。
何日か過ぎて、父の友達の松本正治おじさんが、何とか信(まこと)を説得しようと現われた。だが、たとえ誰が来ても人の話を素直に聞くゆとりなど無かった。取り憑かれたように暴力革命の必然性を話し出していた。恐るべきことを平気で口にした時、おじさんは耐えかねて信(まこと)の頬を「バシッ!」と叩いた。
そのとき信(まこと)は人間として言ってはならないことを言ったことが判った。それでも、目的の為には手段を選ばぬという、排他的な恐ろしい悪魔の思想が取り憑いていて(世の中を変えるには、資本家を銃で倒すしか他に方法は無いんだ、仕方ないじゃないか…)と心の中でつぶやいていた。
転換期
この時から両親の、信(まこと)に対する信頼と期待は、完全に無くなった。(こんな人間を社会に出すと迷惑をかける…)
チカは姉シマの息子が鉄工所をやっているのを思い出し、そこに信(まこと)を連れて行って、そこで働かせることにした。
従兄弟の信行は、「山下製作所」という小さな鉄工所を経営していた。信(まこと)はそこで古い旋盤を与えられ、しばらくは真面目に機械の部品を削っていた。
信(まこと)は(家族たちに二度と心配かけないように、左翼の同志のことはもう忘れよう…)と決心して、真面目に実家から新しい職場に通っていた。
信(まこと)が出かけた後、家に左翼らしき人からの電話があり、信(まこと)の行方を聞き出そうとしたが、チカはその度に「さあ、何処に行ったか判りませんが…」と、とぼけた。
それから何事もなく半年ほどが過ぎた。ある日の休日、信(まこと)は久しぶりに外出した。ぼんやりと「天神」の駅前の商店街を歩いている時、駅の街頭に立つ奇妙な青年達の群れに心が奪われた。
(彼らは左翼ではない、何者だろうか…?) 興味を覚え、人ごみの陰から彼らの様子を見つめた。(彼らは自分の人生を変える何かを持っているかも知れない…)と直感的に思った。
しかしまた新たな問題をひき起こして、これ以上家族たちに心配かけたくなかった。だがどうしても彼らが気になって、不思議と駅の前の広場をたびたび歩くようになった。
初 恋
ある日の夕方、いつもの駅の階段を上がろうとした時、横からツカツカと魅力的な女性が近寄って声をかけて来た。 スラリと背の高い美しい女性は、真理教会の伝道師だった。彼女は頭をペコリと下げた。
「ちょっとアンケートを取らせて下さい。…聖書に関心有りますか?」(んー…)戸惑っている信(まこと)に次々と続けて色々な質問した。
「最後に今あなたの抱えている、あらゆる問題を解決できる『新しい真理』という講義があるとしたら、聞いてみたいと思いますか?」と問いかけてきた時、信(まこと)は咄嗟に「はい」と答えてそのまま、すぐに講習会に行くことに決めてしまっていた。
その日、伝道所に連れて行かれて簡単な講義を受けた。「共産主義は悪魔の思想だ!」という幕が壁にあった。(聖書…?神?悪魔…?)当時、唯物論思考の洗脳の頭に、突然、新たな幻想の霊がかけめぐった。
(確かに「銃や暴力で革命を目指す共産主義」よりも、「愛の力で世界を平和に導く」ほうが正しい…)一瞬にして左翼洗脳が解けてしまった。またたく間に無神論から有神論に急転化していった。
教義に偉大な力を実感した最初のきっかけだった。「復帰摂理史観」は、唯物史観に遥かに勝る、神の救済意志を示す、法則的聖書史観だった。
彼女に逢った事で、それまで引きずっていた唯物思想の洗脳から、突然こんなにも簡単に解放されていくとは思いもしなかった。
今まで「花」を美しく思ったりする情緒も無かったが、自然を造った神様という存在を教えられた時、「青い空」や「白い雲」が人間の感性に呼応するように創られた、神様の美しい贈り物に見えて来たのだった。
ただ人間の心だけが汚れて見えた。(人間は果たして堕落しているのだろうか…?)
その後、彼女から勧誘の手紙が度々来るようになった。
信(まこと)は以前、左翼思想に被れて両親や周りの人たちに、落胆と迷惑をかけたばっかりで、これ以上、心配をかけたくなかった。
「入信」を勧める電話や手紙が頻繁に来ていたが、あえて冷淡を装って、胸の高まりを抑えながら、曖昧な対応をして答えを避けていた。
講義は何度かは受けてはみたが、まだ内容はよく判らなかった。(そんなに簡単に「真理」に出合える筈が無い!簡単には信じられない…)
ある日、待ち合わせて、伝道所に誘われたが、講義に参加したがらない信(まこと)の為に、街頭の隅に寄って、荷物置きの棚で、彼女がノートで個人授業をしてくれた。
神秘性を秘めた伝道師のなおこが、真理の「み言葉」を語る時、透き通ったピンクの唇が艶めかしく動くのをぼんやりと見ながら、いけないことを想像している自分を叱った。
信(まこと)は理想の女性に出会った喜びと、近寄りがたい聖い世界が複雑に絡んで、夜も昼も胸が熱く一杯になった。
その日以来、自分の思いが伝えられないもどかしさを感じ、なおこの似顔絵を描いて壁に貼って、ぼんやりと見つめる日が続いた。
信(まこと)は恋愛の情を持ってなおこに近づいていったが、なおこは常に伝道師としての高い次元で対応した。信(まこと)はいつしかなおこと結ばれれる夢ばかりを見るようになっていた。
ある日、たまらなくなって教会の女性に「恋愛の事」について聞いた。だが「教会での恋愛は絶対に禁止されています」と言われると、失望してしまった。
姉 かつえ
やがて信(まこと)は「アパートを借りて、そこから通勤したい」と言いだした。だがチカは(息子はまた左翼の人間と関わるのではないか…)と心配だった。「もう大丈夫だよ。共産主義は間違っていることが判ったから…」チカはそう言う息子の言葉を信じて一人暮らしを許すことにした。
こうして信(まこと)は、堅粕のアパートの一室を借りて、それから毎日、自転車で鉄工所に通うようになった。日曜日には、部屋の窓から見える線路にガタガタと行き交う電車を一日中ぼんやりと見て過ごしていた。
次の日曜日、姉のかつえが訪ねて来た。かつえはすぐ近くの和裁学校の寮に住み込みで習いに来ていた。「信(まこと)、この前ね、左翼の女性が信(まこと)の行き先を尋ねて来たわよ」「え、そう…」
「それでその女性がね、お前の弱いところを色々と言って批判したからね、私ついカッとなって『関係ないでしょう!弟のことをあなたからそんなに言われる筋合いは無いわ!』と言い返してやったわ」
かつえは一見おとなしい女性に見えたが、激しい性格が潜んでいた。 信(まこと)は既にもう反共の立場に立っていた。家族の心配の種になるし、もう彼らとは一切関わりを持ちたくなかった。「うん、それでいいよ」信(まこと)は姉に答えた。
しばらくすると、信(まこと)はかつえに「新しい真理」の話をしていた。 左翼から離れたばかりの弟は、既に次の新たな価値観に取り憑かれていて、わずかの間に「神の存在論」の話を夢中でしていた。
そんな弟にあきれたのか、「信(まこと)!、あんたはもう次のものに影響されてるとね!、それにそんな断定的に決めつけたような教えを、人に押しつけるんじゃないよ!」弟の話す言葉をいきなり遮り、強く叱りつけた。
天使の誘惑
実は、アパートを借りる前、実家から新しい職場に通うことになる頃、信(まこと)は伝道師のなおこに出会っていた。講義を聴きに行ってからその後、なおこからの手紙が時々来ていた。冷淡に拒み続ける信(まこと)に、根気強く、聖書の言葉を引用しながら入信を勧める手紙が送られてきていた。
固く閉じた心を少しづつ開かせる、不思議な力を持つ文の手紙が彼女から更に送られてくるようになった。
その中に信(まこと)の心を強く打つ言葉が書いてあった。
(あなたと一緒に、この道を歩む日が来ることを楽しみに待っています)という「誘惑の言葉」と共に、この「聖句」が書き添えてあった。それは「主の訓練」に関する信(まこと)の出発点となる、心を揺さぶる衝撃的な言葉だった。
「私の子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に責められる時、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受け入れる全ての子を鞭打たれるのである…」
この聖句が、自分の為に書かれた特別の言葉に思えて、すっかり感銘した信(まこと)は、悪い癖でまたもや何回も何回もこの文章を唱えて繰り返していた。
その神の訓練が、この組織に入って受ける初めの訓練であることを直感した時、(私は「主の訓練」を受ける為、この「教団」に入らなければならない…)と強い衝動が走った。そしてその予感通り、信(まこと)はこの組織と関わり、献身する状況に追い込まれていくのだった。
信(まこと)を伝道したなおこという美しい女性は、髪を短めに切り、いつもこざっぱりした身なりをしていた。探し求めていた素晴しい理想の女性、「神の道」を説く天使のような彼女に、時々会えることが何よりの喜びになった。
いつしか、信(まこと)は恋におちて(スラリとした彼女をもし抱くことが出来れば、どんなに幸せだろうか…)と毎夜、妄想を抱いて熱く悶えた。 眩しいほどの聖い世界を持つ女性に対して、肉欲の思いが湧いてくるのがとても醜く、汚れた欲望で、いけないことのように思えた。
やがて彼女によって、「人生の目的」を教えられ、堕落した人間を救おうとされる「神の使命」のために一生懸命に尽くして生きる姿を、最も尊い価値観として見るようになっていく。そしていつしか(なおこと人生を共にしたい…)と思うようになっていった。
なおこの手紙には「信(まこと)さんと、いつか一諸にやれる日を楽しみにしています」と書いてあった。だが集団生活が苦手な信(まこと)は、人が大勢集まる組織に、献身する気持ちなどすぐにはなれなかった。
新しい職場に、なおこからの電話がよく掛かって来ていた。信(まこと)を預かった従兄弟の信行は、(また誰かに誘われてるな…)と心配しながら「おーい、お前に電話だぞ!」と受話器を手渡した。「修練会に参加してほしい」という誘いだった。信(まこと)は横目で社長の信行の目線を気にしながら丁重に断った。
「すみません、今仕事が忙しいからとても行けません」「今井さんは何の為に働いているの?。仕事より人間として知らなければならない大切なことがあるでしょう。それをぜひ聞いて欲しいの…」 なおこが余りにも根気強く言うので、信(まこと)はとうとう断われなくなった。電話を切ると信(まこと)は「すみません、一週間だけ休みを貰えませんか?」と頼んだ。信行は渋々許可した。
信(まこと)は修練会に参加し「新しい真理」の講義を一通り聞いた。朝から晩まで詰め込み式に一方的に講師が語り続ける、情熱的な講義だった。
そして一週間の修練会が終わると、何事も無かったように又会社に戻って働いていた。 「信行さん、しばらく勤労青年として、入信してやらせてくれませんか?」 信(まこと)は帰って来るなり社長に相談した。
「どうせやるなら中に入って思いっきりやったらいい、そうすればどんなものか、はっきり判るよ」「え…」「とにかく二ヶ月間だけやってみて、その結果をきちんと報告してくれ…」と独断で勝手に期間を決めて信(まこと)に約束をさせた。
氷の心
次の日、信(まこと)は色々と迷った挙げ句、(やっぱり働きながら教会に通っていこう)と決め、(相談してみよう)と教会を訪ねた。ところがその日、新任の団長がたまたま来ていた。
話をしているうちに、急に「今はそんな時代じゃあ無いよ!すぐ献身しなさい」と有無を言わせず、強引に献身することを決められてしまった。
しばらくして偶然になおこが現われた。自分が全く知らない内に、信(まこと)が献身する話になったことを知って、なおこは驚いた。(私に何の相談もなく…) 信(まこと)に対しても不満があり、横から強引に決めてしまった団長に対しても腹立たしく思った。
「なおちゃん、今井くんをみんなのいる場所に、一緒に連れて行きなさい」「え…はい…」 返事をしながらもなおこは、他にも何か用事があったのか、不満そうな顔をした。
こうして二人は夜のバスに乗ったが、何故か気まずい沈黙の時間が続いた。(越権行為で、まずかったかな…?) 信(まこと)は色々と考え過ぎて胸が痛くなった。なおこは怒ったのか着くまでほとんど何も喋らなかった。
信(まこと)は献身してから、なおこと一緒に活動をするうち、彼女が自分の思い描いていた「優しい心を持った理想の女性」ではないことを、次第に感じていった。なおこは教会の教義を堅く信じて、ただひたすら忠実に、その教え通りに厳しく従おうとする人だった。
まだ若く幼い信者たちを導く責任を一人で背負い込んで、一生懸命に実績を出そうと必死で頑張る人だったが、信(まこと)には(彼女の心には、人間としての本当の思いやりや愛情が欠けている)ように写った。 信(まこと)は次第になおこと心が通わなくなっていった。
なおこは組織の命令に徹底して忠実であった。実績を追求するあまり、真面目に取り組まない信(まこと)を激しく批判するようになった。(こんなにいい加減な人、伝道しなければよかった…)
信(まこと)にとって、あれほど憧れの女性に見えた人が、その冷酷な本性を見せた時、(ここは自分の安らぐ場所ではない…)と悟った。人間愛を忘れて、実績ばかりを追い求める、組織の非情さに息苦しくなり、次第に疑問を感じていった。
はや半年過ぎた。だが、「二ヶ月経ったら報告する事」という社長との約束はすっかり忘れてしまっていた。信(まこと)はいったん何か始めると、何もかも忘れてしまう処があった。
小 説 「ポチよ 泣かないで 」
青春編 第1話 おわり
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