ポチよ 泣かないで
祖母の遺志
ゼンは、八十才までほとんど病気知らずだったが、信(まこと)が左翼に洗脳された頃から、次第に元気が無くなっていった。そして今度は宗教にかぶれた信(まこと)を、みんなが寄ってたかってけなして「できそこない!」と馬鹿にするので、ゼンはこれ以上、信(まこと)のことを擁護することができなくなり、次第に言葉が少なくなった。
どんなことがあっても、ゼンだけは最後までかばっていたが、家族のみんなに理解して貰えない、もどかしい思いが膨らみ、腹の中に苦いものがあふれていった。 次第にゼンの腹には黒い影が差していた。体調が悪くなり、お腹が少し膨れるようになった。 信(まこと)が教会に入って一年過ぎた頃、ゼンは畑仕事も出来なくなった。
ある日、ゼンは自分の余命があと幾ばくもない事を悟り、ある重大な覚悟を決めていった。そして、どうにかやっとその準備が整い終わった時、急激に力が抜けていった。 もう、立っているだけで辛くなり、やっとの思いで病院に行くことにした。
診察の結果「即入院」という事になり、すぐ大手術を施されたが、それから急激に容態が悪化していった。
チカとかつえが交代で、ゼンの付き添いに通っていた。「おれは、今までチカさんに好きなことばかりさせて貰うて来て、ほんに幸せもんぞ…。もうなーんも思い残す事は無かー」付き添いに来ていたかつえに、ゼンはしみじみと覚悟したように話すのだった。
ある日、チカはゼンに着替えを持って行ってあげようと思って、二階の姑のタンスを開けた。 だがあれほどたくさんあった着物が一枚もなく、空っぽであった。驚いて他の引き出しも次々に開けていったが何も入ってなかった。そして最後の引き出しにポツンと一つだけ風呂敷に包まれたものが現われた。
胸騒ぎを感じて急いで結びをほどくと、そこには喪服を着たゼンの写真と白い死装束がきれいにたたんで入れてあった。ゼンは自分自身の死期が近いのを既に予感して、何かの願をかけるように、きれいに身辺整理をしていたのだ。チカは姑のゼンの、死を迎える準備と覚悟に驚いてしまった。
やがて信(まこと)のもとに「祖母の危篤」の知らせがあった。直方伝道所に派遣されていた信(まこと)は、かなりの時間が経ってからその知らせを聞き、慌てて見舞いに行った。だがゼンは既に抗ガン剤を打たれて、激しい痛みで体をガタガタと痙攣させて苦しみもがいていた。
ゼンは親族のみんなに見守られながら、何かを託すようにチカの名前を呼びながら亡くなっていった。「チカさん…後のこと頼みましたばい…」
お通夜の夜、姉のかつえが遺体にすがり「婆ちゃん!婆ちゃん!」と激しく泣いていた。 信(まこと)は身を切られるように悲しかったが、自分のせいで祖母が心を痛め、急速に体を病んでいった気がしていた。体を張って信(まこと)を逃がしてくれたゼンの姿を思い出していた。冷たく動かなくなったゼンの遺体を見ながら、とうとう恩返しも出来なかったことを申し訳なく思った。
(お婆ちゃん、ごめんよ、ごめんよ…)と心の中でつぶやいていた。自分が祖母を死に追いつめた気がして、泣くわけにはいかなかった。(泣いちゃいけない!泣くもんか…)信(まこと)は平静を装い涙をじっとこらえた。
横で静かに立っている弟に気がつき、かつえは涙を拭きながら聞いた。「信(まこと)は悲しくないの?」 信(まこと)は強気で答えた。「人間は…みんな…いつか死んで行くのさ…」その時、姉の表情が険しくなった。「何よ!信(まこと)が婆ちゃんに一番可愛がって貰っていたくせに!」 かつえは信(まこと)を激しくなじった。
信(まこと)は信仰するようになってから(人間は死んだら肉体を脱いで魂は霊界に行くもの…)と思い、肉身の別れが永遠の別れとは思わなくなっていた。 ゼンの魂はいつも自分の心に語りかけ、見守ってくれている感覚があった。そこに在るのはゼンの「抜け殻」だけだった。(ごめんよ、ごめんよ、お婆ちゃん!今、何処にいるの…?)信(まこと)は目を閉じて祖母の魂が何処にいるのか捜した。
その時、ゼンの霊が信(まこと)を包み込んだ気配がした。脳裏にゼンの顔が現われた。(信(まこと)…よかよか、泣かんでよか。おれの事はもういいけん、自分の道を行きなさい…いつも見守ってあげるけんね。婆ちゃんはもう地上ではお前のことを守れないことが判ったよ。これからは霊界から、いつでも何処でも飛んでいって守ってあげるからね…)心にそう語りかけると、信(まこと)を包み込むように背中に消えていった。
翌朝、ゼンの遺体には死化粧が施され、生前大切にしていた物と一緒に棺に入れられた。ゼンが良く唱えていた「般若心経」の経本もゼンの枕元に入れられた。やがて棺は火葬場に運ばれ火が点けられた。みんなは控え室に移動したが、信(まこと)は外に出て煙突から上がる煙をしばらく見ていた。だが急に何かを感じて一人だけ元の場所に戻って来た。
覗き穴からゴーと燃える棺の中を覗くと、下の方に「お経の本」がチラリと見えた。「お経」の周りだけ炎がよけて燃えていた。見えない力が「お経」から出ているのを、信(まこと)は不思議な思いでしばらく見ていた。
一時間後、焼けた骨が出て来たが、あれだけの強い炎の中でも、「経本」の周りが少し焦げただけで、「お経」の文字はしっかりと燃えずに残っていた。みんな「不思議だね…」と話した。
信(まこと)は一人、祖母の事を考えていた。あまりにもあっけなく亡くなったゼンの「死に際」の見事さに何かを感じた。幼い主君に、最後まで忠誠を尽くして散った武士道精神の見事な心得のようなものを見た思いがしていた。
東 京
信(まこと)が教会に入って二年目、急に東京への「人事移動」の話が持ち上がって来た。(これはいい機会が出来たぞ…) 信(まこと)は密かにそう思った。というのも、東京に行ったまま帰らない兄の「のりお」の消息を探すためにも(いずれ東京に行かなければ…)と思っていたからだった。
「渋谷支部」に行くことに決まったので、新たな東京の環境に移るのを機会に、そのままこの組織から静かに抜け出す計画をたくらんでいた。 かすかな不安と希望を胸に抱きながら、東京行きの汽車に乗った。
浮浪者
初めて見た東京は、やたらに人が多く、高いビルが果てしなく立ち並ぶ都会だった。
密かに教会を抜け出した信(まこと)は、渋谷、池袋、新宿と、行く当てもなく転々と移動した。ポケットにはわずか五百円しかなかった。パン屋さんで、十円で紙袋一杯に入ったパンの耳を買って、近くのビルの屋上でかじった。サンドイッチの卵が少し付いていて有り難かった。(さて、これからどうしようか…)
夕方になると雨が降って来た。 信(まこと)は近くのビルの屋上の階段の所で寝袋に入って野宿した。 真夜中に、爆睡して眠っている信(まこと)の足をポンポンと叩く人がいた。顔を出すと、二人の警察が見下ろしていた。住人の誰かが「不審な者が寝ている。死体かも知れない」と怖がって通報したらしい。
そのまま派出所に連れていかれ、持ち物や身元などを調べられた。 寝袋の他には、教義の本と数枚の写真だけだった。 本籍地を調べあげると、「家に連絡していいかね?」と若い警官が聞いた。「家には電話しないでください!」 信(まこと)は母が心配することを恐れた。
「うーむ…教会の青年なら、真面目な青年に違いない…。何か深い事情があって抜け出したのだろう…」と年配の人が心配して言った。「実は…教会に疑問を感じて抜け出す決意をしたんです」 信(まこと)は正直にありのままを話した。
「君、このままじゃ、薄汚れて浮浪者になってしまうよ。アルバイトニュースでも買って、すぐ職を探して働きなさい」警官は信(まこと)に五千円を渡して解放してくれた。
(もっともだ…) 信(まこと)は言われた通り、すぐ駅の売店でアルバイトニュースを買った。
パラパラとめくると、寮付きの比較的大きな旅行会館のホテルを見つけた。すぐにその足で面接に行き、即決でその寮に入ることになった。
十年の空白
昼間はウエイター、夜は喫茶店のカウンター、と毎日忙しく働いた。チーフに中華料理の作り方を教えて貰い、いつしか簡単な料理ぐらいは作れるようになった。
寮には九州出身の学生達が何人かいて、次第に仲良くなり色々なことを話したり遊んだりして、楽しい二年間があっという間に過ぎていった。教会の事はすっかり忘れてしまおうとしていた。流される自分を感じていた時(今のうちに何かを身に付けなきゃ…)と次第にあせりを感じていった。
信(まこと)は久しぶりに実家に音信のつもりで年賀状を出した。
それから何日かして、姉の信子やかつえから突然電話があった。「行方不明になっていた兄貴が東京にいることが判ったよ」
しばらくして当の兄貴本人からの電話が入った。世田谷の方で独立してサッシの会社を自営しているとのことだった。 信(まこと)は十年ぶりに兄ののりおに逢って、ただ、ただ、懐かしかった。小学生の頃に別れたきりだった。
広い東京で、血のつながった兄弟が、薄暗いバス停前で再会した。大きかった兄貴の体が以外に小さく見えた。
しばらくして信(まこと)はホテルを辞め、兄ののりおのいる街の方に引っ越した。兄の仕事を手伝ったりしたが、次第に十年の空白がいかに大きいかを感じていった。血を分けた兄弟なのに、判り合えない他人のような冷たい関係があった。
心の通わない悲しさの中で、仕事を手伝いながらも失望していった。(サッシ業は自分に合う仕事ではない。ここは自分の安住する場所でない…)と感じると、やがて行くのをやめた。
東京に来て、はや三年が流れていた。自分に向く職業が判らず、相変わらず会社を転々としていた。 何処に行っても長続きせず、金がなくて、キャベツとインスタントラーメンばかり食べていた。いつしか家賃も払えなくなり、再び食事付きの職を探そうと、なけなしのお金でアルバイトニュースを買った。
偶然にも下町の方に「住み込みの厨房の調理師見習い募集」の広告に目が止まった。信(まこと)はすぐそこに面接に行った。
仕事と恋愛
小さな弁当屋だったが、信(まこと)は寮に入って住み込みで働くことにした。人員が足らなかったのか、その日からすぐ包丁を持たせてくれた。
毎日、大量の野菜や魚などを切ったり焼いたり、何百人分の量の下ごしらえする調理場の仕事は忙しかった。だが、食材を扱う手触りが何とも言えない快感だった。
手が空くと弁当箱にご飯をよそおう「盛りつけ」の仕事を手伝った。そこでのテキパキと段取りをする訓練は、仕事に対する心構えと「食材」を手で触れて処理していく楽しさを充分に味合うことができた。
今までに感じたことのない不思議な充実感があった。包丁使いも、めし盛りも神技のように素早くなっていた。 いつしか「のろまの信(まこと)」が「スピードの信(まこと)」と呼ばれるようになっていた。
ご飯盛りを手伝うようになった時、そこに長年勤めていたひろこという一回り年上の女性と向かい合って、初めて言葉を交わした。彼女は信(まこと)が入社してきてから、だんだんと慣れていく様子を少し離れた所から、ずうーっと静かに見ていたのだった。
信(まこと)はすばやい速さで、ご飯を盛りながらも、冗談半分で「今度飲みに行きませんか…?」と誘って、そのまま忘れていた。
それから何か月か経った。「ねえ、あんた、一体いつになったら私を飲みに連れて行ってくれるんだよー!」彼女はしびれを切らしたのか、ふざけたふりして、ウインクして催促して来た。信(まこと)は彼女が本気で待っていたことを知って慌てた。
初めてのデートはスナックだった。ほんのりと酔いがまわった頃。「自分には、ある使命があって、いつか時が来たら、帰らなければならないんだ」「へえー…」 だが彼女はその意味が何のことか判らなかった。
信(まこと)はひろこの中に、だんだんと母親のようなぬくもりを覚えていった。今まで生きて来て、初めて人間同士の暖かさと安らぎを感じていた。
ひろこは母親と二人暮らしだった。彼女は、信(まこと)の中に底知れぬ深い孤独な影を感じとっていた。遠慮がちの信(まこと)を、ある日、自分の家に連れて来て、昔から居た弟のように自然に導き入れてくれた。
その日を境に、砂漠のようだった信(まこと)の心を癒す愛の水が潤い、バラ色に輝く夢のような日々に変わっていった。
ある日、職場のおばさんが「二人の相性はピッタリだよ」と言った。男勝りのひろこと、内気でおとなしい信(まこと)とは、確かに心が惹かれあっていた。
しばらくして、信(まこと)は弁当屋を辞めた。アパートを借りて、亀戸駅前の「喫茶店」に勤めるようになった。コーヒーやサンドイッチを作るカウンターの仕事は結構忙しかった。 午前中はめまぐるしく忙しかったが、午後には客足がパッタリと止まった。
何とかお客の目を引こうと、湯気の立ったコーヒーカップの絵を描いて店の入口に貼った。 ポスターを工夫して描いている内に、文字や絵を書くことがとても面白いことに気がついた。(自分のやりたかった仕事はこれだ・・・この仕事こそ自分の「天職」だ…。) そう直感した信(まこと)は本格的に「レタリング」の通信教育を習い始めた。
時間を忘れて文字やイラストを練習して描く夜が毎日続いた。筆を持って熱中している時、何もかも忘れられる充実した時間が流れていた。
東京に来てひろこに出会ったことと、自分の天職を見つけたこと。この二つが、「大きな恵みと収穫」だった。 味気ない人間関係をさまよって来た信(まこと)が、ひろことの出会いによって、ようやく生きる勇気と自信を取り戻そうとしていた。
小
説 「ポチよ 泣かないで」
青春編 第2話 おわり
|