風の記憶
昭和二九年 犬の地形の前足にあたる小さな海岸沿いの村に 「今井 信(まこと)」という男の子が生まれた。
信(まこと)は物心がつくようになると
兄の私 紀生(のりお)(のあとを追ってヨチヨチと歩くようになった。
私は九歳年下のそんな弟が可愛くなって (いい遊び相手になるぞ・・・)と思い始めていた。
やがて信(まこと)が六歳になった時 彼の未来を暗闇に引きずっていくきっかけとなる ある不思議な事件が起こった。
その日は足元から底冷えする寒い朝だった。
「紀生(のりお)ー!」
母親のチカが 次女の勝江(かつえ)の授業参観に行く為に
着物に着替えてから 二階に上がって来た。
・・・ 略
「紀生(のりお)ー 母さんは出かけるけんね。あと頼んだよー」
試験勉強中だった 紀生(のりお)は机に向かったままの姿勢でと生返事をした。
「うーん」
チカが襖の前でふと振り返ると末っ子の信(まこと)が 祖母ゼンのタンスの前にポツンと座っていた。
(あら・・・?)
信(まこと)の様子がおかしいのに気がついて チカはしばらく見つめた。
・・・略
信(まこと)は 膝を抱いて丸くなり
寒さに耐えながら ブルブルと小刻みに震え 歯をガチガチさせていた。
「おかしかねー・・・ほら 紀生(のりお)
ちょっと見なさい。信(まこと)が寒がっとるから」
紀生(のりお)は 勉強を中断して机から離れて
襖の横から信(まこと)の震える姿を見た。
「おっ」
「あんた 火をおこしてコタツ
を入れてあげなさい」
「う?、 うん・・・」
チカは 紀生(のりお)に細かく指示して頼むと
次女の勝江(かつえ)の授業参観にすぐ出かけていった。
「信(まこと)ー ちょっと待ってろよ」「う・・・ん」
紀生(のりお)は早速 押入れの前に敷布団を敷き
その上に瓦コタツ を静かに置いた。炭火をおこすために いそいそと階段を降りていった。
・・・ 略
やがて 紀生(のりお)は瓦コタツの中央に 赤い炭火を丁寧に移すと
上から掛布団をかけた。
「よーし!出来たぞー さあ 信(まこと)ー 入れ!」
信(まこと)は暖かい布団に滑りこむように潜り込むと
すぐ安らかな表情になった。
それを見届けた 紀生(のりお)も すっかり安心して襖を閉めて隣の自分の部屋で再び勉強を始めた。
・・・ 略
・・・ 略
誰かに見られているような気配がして 信(まこと)はふと左の床の間に顔を向けた。
そこには台の上に立てかけてあった遺影写真が見つめていた。16歳で志願して満州に出征した兵隊姿の叔父(芳喜)と目が合った。
(ん・・・何だろう・・・?)
その意思を探ろうと しばらく兵士の目を見つめていたが
突然胸をかきむしりたくなるような激しい胸騒ぎに襲われた。
険しい茨(イバラ)のような霊に支配された時 写真の兵士がフワッと動いたような気がした。
信(まこと)は恐ろしくなり 咄嗟に目を背けて布団を被った。
炭火の入った瓦コタツを強く抱いて丸まり 恐怖の思いを必死に忘れようとした。
闇の中にくすぶる赤い炭火を見つめながら
ただ心臓だけが 「
ドキン・ドキン ・・・」 と早鳴りに脈打っていた。
・・・ 略
もはや誰の助けを呼ぶこともできず あきらめてじっと耐えていたが 次第に意識が薄れていった。
信(まこと)は不思議な息苦しさの中で いつしか心地よい深い眠りの世界に入っていった。
どの位の時間が過ぎたのだろうか・・・信(まこと)は日なたで猫と遊んでいる夢を見ていた。
その頃 母チカは次女の勝江(かつえ)の授業を参観していたが
急に何か激しい胸騒ぎを感じて 教室を途中で抜け出して早めに帰って来た。
・・・ 略
ゼンがおそるおそる二階に上がって見たが 布団が一枚あるだけで辺りはシーンと静まりかえっていた。
(あら? おらん・・・)
孫が隠れていそうな布団を見つけ 静かにめくってみると
全身肌を桃色に染めて丸くなっている孫の姿を見つけた。
「信(まこと)ー!信(まこと)ー!・・・」
・・・ 略
「ああ!
チカさん!チカさーん!」
・・・ 略
「チカさん!信(まこと)が死んだごとなっとるばい!」
信(まこと)を抱えたゼンが叫んだ。
・・・ 略
「信(まこと)!信(まこと)ー!」
頬を何度たたいても起きなかった。チカはすぐに決意した。
「婆ちゃん!うちがすぐ病院に連れて行きます」
チカは大急ぎで階段を降りていった。
その時 兄の
紀生(のりお)は隣の部屋で勉強していたが
急いで追いかけて降りて来た。
だが チカの背中でダラリと死んだようになった弟の姿を見ると
みるみる血の気が引き 青ざめた顔になった。
チカは信(まこと)を背負って慌ただしく玄関から駆け出した。
近くの橋に差し掛かった時 突然、海の方から冷たい風が
「ピュウゥゥー ・・・」と強く吹きつけた。
信(まこと)を包んでいた暖かい靄(もや)を一瞬に吹き散らすかのように チカの背中を通り抜けていった。
・・・ 略
「ポチよ 泣かないで 」
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