英霊の闇を背負った少年は
ポチの悲哀を再現していく…
幼い記憶は辿る宿命の暗示

小  説

少年編

青春編

完結編

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目 次

あらすじ

解説    表紙

小説ポチよ 泣かないで

第T章 少年編 第1話

巨大な犬 英霊の願い
を背負う少年期回想記

第1話

第2話

第3話

著 ほのぼの童子/田口紀生

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     風の記憶

 昭和二九年、狛犬の地形の前足にあたる小さな海岸沿いの村に、「今井 信(まこと)」という男の子が生まれた。まことは物心がつくようになると、長男の紀生(のりお)のあとを追ってヨチヨチと歩くようになった。のりおは九歳年下のそんな弟が可愛くなって、(いい遊び相手になるぞ・・)と思い始めていた。 やがてまことが六歳になった時、彼の未来を暗闇に引きずっていくきっかけとなる、ある不思議な事件が起こった。

 その日は足元から底冷えする寒い朝だった。「のりおー!」母のチカの授業参観に行く為に着物に着替えて二階に上がって来た。

階段を上がって左側は姑(祖母ゼンの部屋で、右側は長男ののりおの部屋であった。「のりおー、母さん出かけるからね。あと頼んだよ」試験勉強中だったのりお「うーん」と生返事をした。チカ襖の前でふと振り返ると末っ子のまことが、ゼンのタンスの前にポツンと座っていた。「あら・・?」チカは、まことの様子がおかしいのに気がついて、しばらく見つめた。まことは、自分の膝を抱いて丸くなり寒さに耐えていたが、ブルブルと小刻みに震えて歯をガチガチさせていた。おかしかねー・・・のりおほら、ちょっと見なさい」「うーん?・・あ・・」のりおも覗き込むように見ると、いつもはゼンの部屋で元気に遊んでいる筈のまことが震えていた。のりお、あんた、火をおこしてコタツ にまことを入れてあげなさい」「うん」 チカのりおに細かく指示して頼むと、妹かつえの授業参観にすぐ出かけていった。
 まこと、ちょっと待ってろよ」「うん・・」 のりおは押入れの前に敷布団を敷いた。その上に瓦コタツ を静かに置くと、いそいそと階段を降りていった。裏庭に七輪を出し、風呂の炊き口に置いてある炭壷から炭を移して火をつけた。たちまち寒空にモクモクと煙があがった。
「うー、寒い」のりお力強くパタパタと団扇(うちわ)であおいで炭火をおこした。

 やがてのりおはジュウノウに赤い炭火を入れて持ってきた。瓦コタツの中心に炭火を丁寧に移すと、上から掛布団をかけた。「よし、出来たぞ、さあ、まこと、入れ!」まことは滑りこむように布団の中に潜り込むと、まもなく安らかな表情になった。 それを見届けたのりおも、すっかり安心して、襖を静かに閉めると隣の自分の部屋で勉強を始めた。 


 しばらくして、体がぬくもってきたのかまことは心地よい幸せを感じていた。布団から顔だけ出してしばらくぼんやりと天井を見て空想にふけっていた。だがこの日、異様な冷たい霊気が部屋を包んでいた。

 誰かに見られているような気配がして、まことふと左の床の間に顔を向けた。そこには一枚の遺影写真が台の上に立てかけてあった。16歳で満州に出征した叔父(芳喜)兵隊姿と目が合った。悲しげな目でまことを見つめ、何かを強く訴えかけていた。(何だろう・・?)その意思を探ろうと、しばらく兵士の目を見つめていたが、突然胸をかきむしりたくなるような激しい胸騒ぎに襲われた。険しい茨(イバラ)のような霊に支配された時、写真の兵士がフワッと動いたような気がした。 まことは恐ろしくなり、咄嗟に目を背けて布団を被った。

 
 だが、写真から抜け出して来た英霊が、布団に隠れた自分を上から静かに見下ろしている気配があった。布団からはまことの頭の毛が少しはみ出ていた。英霊は静かにその枕元に腰を降ろした。まことは髪の毛を触られる気配を感じた瞬間、はじけるように向きを変えてコタツの奥の方に潜り込み、必死に布団の隙間を塞いだ。   スクロール

炭火の入った瓦コタツを強く抱いて丸まり、恐怖の思いを必死に忘れようとした。 闇の中にくすぶる赤い炭火を見つめながら、ただ心臓だけが「ドキン・ドキン・・」と早鳴りに脈打っていた。(兄ちゃーん、助けて・・)だが何かが喉にふさがり、その声はかすれてかき消された。 部屋に漂う恐ろしい霊気に取り囲まれてしまうと、逃げ道を失った袋の鼠のように身動きが取れなくなった。もはや誰も助けを呼ぶこともできず、あきらめてじっと耐えていたが、次第に意識が薄れていった。まことは不思議な息苦しさの中で、いつしか心地よい深い眠りの世界に入っていった。

 どの位の時間が過ぎたのだろうか・・まことは日なたで猫と遊んでいる夢を見ていた。その頃、母のチカは、妹のかつえの授業を参観していたが、何か激しい胸騒ぎを感じて、途中で教室を抜け出して早めに帰って来た。家に着くなり、二階から子供のうめき声がするのをかすかに聞いた。「まことの声やろか・・・?婆ちゃん、まことは何ばしよるっちゃろうか・・?」「うーん?・・・」はしゃいでいるのか、もがいているのかわからない、何か聞いたことの無い不思議なまこと声だった。「たぶん・・また猫と遊びよるっちゃろう・・・どれ、あたいがちょっと見てこようか」

 ゼンがおそるおそる二階に上がって見たが、布団が一枚あるだけで辺りはシーンと静まりかえっていた。 (あら?、おらん・・)孫が隠れていそうな布団を見つけ、静かにめくってみると、肌が全身桃色に染まって丸くなっている孫の姿を見つけた。「まことー」何度も声をかけたが、全く目を覚まさなかった。肩を軽く揺すった時、まことの体は力無く崩れた。グッタリとなっている孫の異常さに気がつき、ゼンは咄嗟に抱えあげ、近所に聞こえるような大きな声で叫び続けた。「ああ!まことー!まことー!・・・チカさん!チカさーん!」

 下で着替えていたチカは、取り乱した姑のゼンの異常な叫び声に驚いた。(ハッ、何か大変なことが起きた・・)不吉な思いがよぎって、着替えもそこそこに、すぐ二階に上がっていった。
 チカが上がってくるや否や、「ああっ、チカさん!、まことが死んだごとなっとるばい!」まことを抱えたゼンが叫んだ。「えっ!」チカは急いでまことの傍に近づいた。「どげんすんなー!」ゼンはオロオロとして叫んだ。「まこと!まことー!」頬を何度叩いても起きなかった。チカはすぐに決意した「婆ちゃん!うちがすぐ病院に連れて行きます」「ああ、そげんしない」ゼンまことチカの背に背負わせると、チカは大急ぎで階段を降りていった。
その時、兄ののりおは隣の部屋で勉強していたが、襖ごしに聞こえるゼンチカのやりとりを聞いて何か急に怖くなって身動きがとれなくなってしまっていた。チカが下に降りていった後、(何事が起きたのか?)を確かめるために急いで追いかけ降りて来た。だが、チカの背中でダラリと死んだようになった弟のまこと姿を見ると、みるみる血の気が引き、青ざめた顔になった。



 チカまことを背負って慌ただしく玄関から駆け出した。近くの橋に差し掛かった時、突然海の方から冷たい風がピュウゥゥー・・と強く吹きつけた。まことを包んでいた暖かい靄(もや)を一瞬に吹き散らすかのように、チカの背中を通り抜けていった。その冷気で、かすかにまことの意識が戻り、の背中に背負われて何処かに向かっていることがぼんやりとわかった。体が冷えて、ゾクゾクと寒気を感じた途端、急に激しい痙攣(けいれん)が起きて、全身がガタガタと激しく震えた。(あっ生き返った!この分ならきっと助かる・・)チカは背中から伝わる命の反応にひと安心した。わずかの時間、息を吹き返したかに見えたが、橋を通り過ぎるとすぐにまた意識が遠のいていった。首の据わらない赤ん坊のようにグラグラと頭が揺れるたびに、うつろな半眼の目に映る家並みの景色は、激しくぶれるカメラの映像のように揺れながら通り過ぎていった。



     霞の世界

 近くの病院は、あいにく先生が往診中で留守だった。(こんな時に、困ったね。仕方ない・・)「よいしょ」まことを背負い直すと、もう一軒の病院に向かって再び走りだした。この道はいつも通ってる筈なのに、今日に限ってまるで雲の上を歩いているように中々進まなかった。それでも夢中で走っていると、やっと病院の看板が見えて来た。チカは慌ただしく戸を開けて中に入った。「先生!子供をお願いします。息子が・・」事故のいきさつを急いで話した。 診察台に寝かされたまことは、二本、三本と続けて注射を打たれたが、まるで死体に針を打つかのように全く反応が無かった。(もう駄目かも知れない・・)チカは諦めかけながらも必死に祈っていた。 やがて五本目の注射が打たれた時、まことの体がピクリと動き、かすかに目を開けた。

霞んだ視界に心配そうに覗き込む母がいた。「あ、気がついた。良かったー・・」 意識は戻ったものの、頭がぼんやりとして、何だか違う世界に入り込んだ感覚だった。「ここ どこ?」キョロキョロと見渡した。「ああ、もう大丈夫ですよ・・。お母さん、どうやら入院する程ではないでしょう」先生もほっとして笑顔で言った。


 
そのころゼンはジリジリして家で待っていた。あまりにも二人の帰りが遅いので、てっきり(もう孫のまことは死んでしまったのでは・・)と早とちりして近所中に大騒ぎして言い廻っていた。やがてチカに背負われてまことが帰って来た時、家の玄関には、近所の人々が大勢心配して集まっていた。「おお、まこと・・!よう生きて戻って来たね」ゼンは涙ぐみながらも驚いた様子で迎えた。 まことは母の背中から降ろされるとすぐ離れて元気に歩きだした。「まことちゃん、あんた安静にして、しばらく寝とったほうがよかよ」「ううん、僕、もう何ともないよ!」近所のおばさんが心配する言葉をよそに、見舞いに来ていた友達とすぐ遊び始めた。(ああ、何とか大事に至らずに済んだ・・)チカは安心して、ホッと胸を撫で下ろした。

 一方、祖母のゼンは、(ひょっとしたら、この子は脳に大変な致命傷を受けたかも知れない・・)と、何かとてつもない不安な気持ちがよぎっていた。だが全ては、その後のまことの様子を静かに見守るしかなかった。(この子は知恵遅れになるかも知れん・・・)
 この日の出来事は、やがてみんなの記憶からは跡形も無く忘れ去られることになっていく。だがゼンだけはこのガス中毒事故のことをしっかりと記憶に残した。その後、まことの思春期に、とてつもなく大きな影響を現わしてくるようになるとは、この時、ゼン以外誰も予想もしなかった。この事故以来、まことの頭は、霞に包まれたような、ぼんやりとした感覚の中に置かれるようになった。


 それから半年が過ぎた。ある日曜の朝、まだ幼いまことは姉たち二人に連れられて山道を登っていた。傾斜の急な坂を長女の信子は先に登りながら、ヨチヨチと歩く弟が足手まといに感じた。「はよう登らんね、この死にぞこない!。お前なんか、あの時死んでれば良かったとに!」まことは、足手まといの厄介者扱いされると、悲しくなって何も言い返せなかった。生きることを否定されることが、この頃から既に始まっていた。


       さまよう猫

 まことガス中毒事故に遭う前の鮮明な記憶があった。幼稚園に入る頃に、雨漏りがひどくなった古い家を立て直すことになった。
家が立つまでの間、二十軒ほど先の、父の幼な友達である「松本のおじさん」の家に厄介になることになった。祖母ゼンかつえまことたち三人は、飼っていた三毛猫のミーを抱いて、仮住まいに連れて来たが、その家には、既に別の三毛猫が飼われていた。「仲良くしてね。」と、ミーをその傍に降ろした。 だが、先にいた飼い猫は、自分の縄張りを侵して急に入って来た、見知らぬよそ者のミケ猫が現われたので警戒した顔になった。
 自分と同じ三色の三毛のミーの身体に鼻を近づけ、クンクンと臭うしぐさをした。よそ者の臭いを嗅ぐと、たちまち「フーッ!」と爪をたてて激しい喧嘩を挑んで来た。ミーは不意打ちを喰らい驚いて、一目散に忠霊塔の丘の方へ走って逃げていった。 畑の中を駆け抜けていく後姿を見て、まことは後を追いかけて「ミー、ミー!」と何度も呼び続けた。まことかつえは、あちこちの畑を捜しまわったが、とうとう行方を見失った。

 やがてミーは、忠霊塔を目印にしながら、家が解体される元の処にどうにか戻って来たが、もうその家には誰も居なかった。家の中は真っ暗闇で、人影もなくシーンと静まりかえっていた。「ニャーオ?ニャーーオン…」  誰もいない何もなくなった空き地をウロウロしながら、心細くなって鳴いていた。母チカは、家の跡地をさまようミーを見つけては、何度も仮の家の方に連れ戻そうとしたが、仮住まいの家の近くまで来ると、襲ってきた猫を思い出したのか激しく暴れて、チカの腕を引っかいて、いなくなってしまうのだった。

 ミケは、今までの安らぎの家が暗闇の世界に変わったことを知った。 ミケは闇に向かって主人を求めて泣き疲れるまで彷徨い続けた。

ミーはそれから二ヶ月の間「安住の家」「主人」も失った野良猫になった。忠霊塔の下のヤブの中をさまよい歩いた。家と主人が分裂した二つの家の間を、疲れ果てるまで何度も何度も行ったり来たりしながら探し求めた。主人のいない暗闇の空き地と意地悪な猫のいる家、どちらに行っても寂しく怖い別世界の空間であった。行き場を失い、暗闇に怯えながら、お腹を空かしては「ニャーオー、ニャーオン・・・」と真夜中に主人を求めて何度もないていた。
ミケは仕方なく、あの意地悪な猫の待ち構える怖い場所に戻るしかなかった。

 主人が移っていった家は、既に別の飼い猫の縄張りであり、「喧嘩に負けてしまったミーは、もう二度とその家に入ってはならない」という、猫の世界の厳しいおきてがあった。


 まことミーをさんざん捜しまわったが見つからず、あきらめて暮らしていた。お世話になる事になった仮の家の二階で、ゼンに布団を敷いて貰って、しばらく横になっていたが、夜中にミケの泣き声を聞くと、「あっ、ミーが泣いてる」布団から跳び出して外に出て夜中を捜し廻った。
 「ミー!ミー!」離れた所からこちらをうかがうミケの目が光っていた。 まことは、暗闇に目を光らせて泣くミーに、いりこのご飯を持って行って何度も呼んだ。「ミー おいでー、ミー、ミー!」小さな主人の声が聞こえて、この場所にいることを知っている筈なのに、ミケは恐れてちっとも近寄って来なかった。「人に着かんで、家に着く猫の習性はほんに哀れかばい・・」心配して、いつの間にかまことの後に来ていた祖母ゼンがつぶやいた。

 やがて新築の柱の骨組みが出来て、棟上げの餅が屋根の上から四方にまかれた。まことは、近所の人たちが集まって餅を拾う姿を不思議そうに見ていた。 家はまだ未完成で畳もまだ敷かれてなかったが、母チカの提案で新築の家で正月のモチをつくために、まことたち家族みんなは大晦日に早めに戻ってきた。ゼンは手伝いに来たおばさんと二階の部屋で荷物を片付けていた。まことはその様子を後ろでぼんやりと見ていた。そのとき、階段の下の方に何やら静かに現れた生き物の気配を感じた。「ん」 まことはそーっと近づき階段の上からのぞいた。痩せこけたミケがまこと見上げていた。(あっ、ミーだ。ミーが帰って来た!)まことの顔を見上げると一声かすかに鳴いた。ミケはまことを確認すると警戒しながら力を振り絞って一段上がった。ゆっくりと一段ごとに休みながら上がろうとするが、途中で滑って落ちそうになった。体力がすっかりなくなっていて一段の高さがとても辛そうだった。「ばあちゃん!、ミーが戻ってきたよ。」 まことは、嬉しくてたまらず、ゼンに向かって叫んでいた。心の底から喜びが溢れていた。(頑張れ!ミー、もう少しだよ)まことは心の中で励ましながらあがって来るのを待っていた。
まことはこの時、全身で飛び上がるほどの歓びを感じていた。これ程の喜びを感じたことはかつて無かった。


いなくなったミーが、ガリガリにやせこけて戻って来た。2ヶ月の間、野良猫の苦労を重ねて、ボロボロにやつれていた。最後の段を自力で上がりきると新築の新しい床の臭いを嗅ぎながら、目をキョロキョロさせて、おそるおそる近寄ってきた。確かに元いた場所に、再び主人たちの同じ顔ぶれを確認すると、ゼンのひざに頭をこすりつけて来た。やっと安心したようにゴロゴロと喉を鳴らし始めた。「あらーミー、よう帰って来たねー。」ゼン頭を撫でた。すっかり軽くなったミケを抱えて驚いた。まことミーを抱えるとすっかり軽くなっていた。毛並みもゴワゴワに荒れて戻らなかった。「あ、こんなに軽いよ」「おお、ほんにこげんやせてしもうて・・・こりゃーご飯はずーっと食べ取らんばい、…かわいそうに…ねー」ゼンはすぐに台所に行って混ぜご飯で栄養のあるおかゆを作ってあげた。

 実のところ、
ミーは2ヶ月の間、よその家の誰からにも餌を与えられず、飲まず食わずで荒野をさまよい歩き、命ギリギリの状態でようやく主人の戻った元の安住の家に帰ってきたのだった。人になつかない不器用なミーは、ゼンたちの帰りがもう少し遅かったら、冬の寒空の下で餓死するところであった。ミーは厳しく苦しい試練の中にあっても、(元の主人のいた場所にいつかきっと帰れる…)という直感を信じて、希望を捨てずに、暗黒の2ヶ月間、孤独に耐えてギリギリまで生き抜いて帰ってきたのだった。

その後、ミーは元どおりの健康な体を回復していった。子供を何度か産んで母親にもなった。放浪癖の息子のチョンとやせっぽちのミー2世が残った。
だがミーまことが中学生になる時、フグの毒に当たって口からよだれを流しながら、日に日に毛づやが無くなり弱っていき遂に死んでしまう。
 まことは、家の立て直しのために、余りにも、気苦労ばかりかけてしまったミーに、何もしてあげられなかった自分を申し訳なく思いながら、この時を振り返ることになる。



      ポ  チ


 今井家には猫の他にも、ゼンが山から連れてきた犬のポチがいた。
ある日、まことゼンに連れられて親戚の家に出かける事になった。家を出て駅に向かう二人の後を、老犬のポチは何度追い返してもついて来るのだった。「もう帰りなさい!」とうとう駅舎までついて来たポチに、ゼンがあきれてきつく叱ると、ポチはうなだれ、トボトボと帰るそぶりを見せた。まことたちが改札口を出るのを遠くで振り返りながら見ていたが、何を思ったのか、急に戻ってきて一気に改札口を通り抜けようとした。だが駅員に遮られると、残念そうに「クーウン」と泣いて戻った。まことポチの声を聞き、(連れてってー)と必死に頼んでいるのが判った。

 やがて汽車が近づいて来た時、ポチは改札口をあきらめて、駅舎の横から線路を横切ろうと走って来た。既に汽車は目の前まで来ていた。「危ない!ちょっ!」誘導していた駅員に大声で怒鳴られ、ポチは驚いて慌てて又引き返した。危機一髪で敷かれるところだった。
 やがてまこと達の乗った汽車は動き出し、すべるように景色が遠退いていった。まことがしばらく窓の外を見ていると、線路沿いの国道をトボトボと寂しそうに帰るポチが見えた。「あっ、ポチだ、ポチー!」汽車のガラス戸から手を振るまことに気がつくと、ポチは急に尻尾を振って「ワン!ワン!」と嬉しそうに吠えて走り出した。汽車は次第に速くなっていったが、それでもポチは息をはずませながら必死について来ようとした。                          スクロール

だが、忠霊塔の丘を登る道に差し掛かった時、突然柵が前方に現われた。「キャイーン!」「あっ!」柵に激しくぶつかったポチの姿はそのまま見えなくなった。「ポチ…!」汽車はカタカタと容赦なく過ぎ去って行った。(あれからポチは、果たして無事に帰ったやろうか…)まことは汽車に乗っている間、ずーとポチのことが心配で仕方が無かった。親戚の家に行ってからも(今頃ポチはどうしてるやろか…)と頭によぎるのだった。

 やがて何日かして二人が帰って来ると、ポチが裏口から飛び出して来た。尻尾を全身で振ってまことの胸に飛びついて来た。「ワンワン!」「あ、ポチ、元気だったかー、ケガしてないね、よしよし」


 それから半年が過ぎたある日、ゼンは裏の土間にむしろを敷いてわらじを作るためのワラを叩いていた。まこともその傍に座っておもちゃで遊んでいた。その時、見かけないおじさんが、何やら棒の先に大きな布袋の付いた網を抱えて、そーっと忍び込むように家に入って来た。(何だろう…?)不思議そうに見ているまことに目が合うと、おじさんは指を口の前に立て「シー、静かに」と小声で合図した。のんびりと毛づくろいをしていたポチの後ろからソロリと近づいたかと思うと、一気に頭から袋をかぶせた。すくいあげてすぐ袋の口を閉じると、瞬く間に連れ去っていった。「キャイン!キャイーン!」ポチは突然の闇に包まれ、袋の中で必死でもがいていた。不意の出来事にまことも驚いた。ゼンもその一部始終を見ていながら、何の文句も言わず、ポチを取り返しに行こうともしなかった。「婆ちゃん、ポチは何で連れて行かれるの?」ゼンは言葉に詰まってうつむいた。ゼンの悲しい横顔があった。(何か子供には言えない事情があるのやろか…?)まことはもう、それ以上何も聞けなかった。

 すぐに玄関から表に飛び出したが、ポチは狂暴に吠える野良犬たちがたくさん入れられている鉄格子の檻(おり)の中に袋から乱暴に投げ入れられた。突如、目の前に現れた狂犬病の大型犬に囲まれ、いきなり吠えかかられた。「キャイン!キャイーン!」ポチは驚いて恐怖の叫び声をあげた。檻の隅っこに逃げこむとブルブルと震えながら外に逃げようともがいた。まことが心配そうにポチに近寄ろうとしたとき、車はたちまち少年をふり切って逃げ去るように、排気ガスの煙をブルルーンと吐き出して走り去った。「ポチー!」後を追って来た小さな主人の姿を見つけたポチは悲しそうな目で「ワオーン」と一声吠えた。 必死に追いかけてついていったが息切れして、とうとう車に追いつけなくなった。公民館の前で立ち止まったまことは取り残され、ポチの姿が小さくなるまでいつまでも見送った。 その日を最後にポチは遂に帰って来ることはなかった。



      黒い影

 ある日、まことは遊びに来ていた近所の男の子に怪我をさせてしまった。「あ、痛い!」耳から赤い血がしたたり落ちた。その子は耳を押さえて泣きながら自分の家に帰っていった。まこと(たちまち、その子の親たちが怒鳴り込んで来る…)と思い込み、咄嗟に浜辺に逃げていった。



 やがて夜が更けてもまことは暗い砂浜を一人でトボトボとさまよい歩いていた。いざ逃げて来たものの、どこにも行く当てが無く、家の近くまで戻って来た。

電柱の明かりの下で立ち尽くし、自分の影を見つめてぼんやり時を過ごしていた。叱られるのが怖くて、いつまでもためらっていたが、(怒られても仕方がないか…)と急に思いを変えて家に帰っていった。
 裏口からそーっと入ったが、みんな寝静まっていてシーンとしていた。父も母もぐっすりと寝ているのか、まことをとがめたり叱ったりする者は誰もいなかった。静かに二階に上がると布団に入っていたゼンがすぐ気づいた。「お、ほら、もう寝なさい」と小声で自分の布団に導き入れてくれた。覚悟して帰って来たのに誰にも叱られないのが不思議だった。 
まことは人を傷付けたことをハッキリ実感していたのに、家族の誰もみんな何も言わず、叱ってくれないのが逆に気持ち悪かった。だが、怪我した子の容態を自分から聞き出す勇気など無かった。(人を傷つけてしまったのに、このまま何にも罰を受けない自分の存在がとても許せない)ような気がした。
 何事も無かったように時が過ぎていった。その後、まことが忠霊塔の丘にふと登っていくとそこに怪我させた子が石の塔の上で座って見下ろしていた。まことはドキッとして立ち止まり、一言謝ろうとしたが急に声が出なくなって口ごもってしまった。彼は何も言わずにまことの口元を読み取ったのか、ニッコリと笑顔でただ静かに見つめるだけだった。そしてケガさせたことを謝れないままその場を通り過ぎた。その後、なぜか会えないまま、いつの間にか彼の家族は何処かに引っ越してしまった。
(人に傷を負わせても、謝らないままで済ませられていく自分の存在とは一体何なのだろうか…?)と忠霊塔を見るたびに思い出していた。



     手ぬぐい

 まことはいつも祖母のあとばかりくっついて過ごしていた。ゼンが映画を見に行く時も、ツワやツクシを取りに行く時も、いつもゼンの行くところ、どこにでもついて行くのだった。 学校から帰って来るとまことはすぐにゼンの姿を探しまわった。家の何処を探してもいない時は小屋の後ろを見た。リヤカーがないことを確認すると、すぐ裏の忠霊塔の丘に登っていった。

そこから見下ろす畑の中にゼンの姿を見つけると「婆ちゃーん!」と大声で叫んで手を振った。遠くで手ぬぐいを被ったゼンが驚いて振り返ったが、茫然と立ち尽くしたまましばらく動きが止まった。 ゼンには、戦死した息子の芳喜が忠霊塔から突然抜け出してきて叫んでいるように見えたのだった。ようやくその姿が孫のまことだと気がつくと、安心して(おいでおいで)とやさしく手で招いた。
 時々、その畑にゼンの姿が見えない時はガッカリしたが、その時は一キロ先の(遠い方の畑に行っているかも知れない)と思いついた。

信号も無い危険な踏み切りの線路を横ぎって、畔(あぜ)道を抜けた。小川沿いの曲がった草の生えた道を更に走って行くと、遥かな丘の畑の中に小さく人影が動いているのが見えた。まことは白い手ぬぐいを被った人影がゼンだと確認すると小さな体で力いっぱい走って行った。

 「婆ちゃーん!」「あらっ!」ゼンは驚いて振り向いた。しばしクワを持つ手を止めてニッコリ笑った。「あらっーまこと、あんたひとりで来たとねー」「うん」「ほおー、ようここまでひとりで来たねー」ゼンは鼻の頭に噴き出した汗を手ぬぐいで拭きながら、腰を降ろしてひと休みした。思い出したように、エプロンのポケットから、黒い大粒のアメ玉を出して差し出した。「ほら食べなさい」「うん」 まことはしばらくアメ玉をほおばりながら、再び畑仕事を続けるゼンの傍で、二匹の紋白蝶々が野菜畑の大根の花の上をヒラヒラと楽しそうに舞うのを、飽きもせずにぼんやり見て過ごした。 やがてその蝶々もいなくなると、まだおぼつかない手で重いクワを持ちあげ、その辺の土手をむやみやたらに掘った。「これ!、もうすぐ終わるけんね、その近くで遊んでなさい!」「うん」

 まことはクワを置いて、隣の梅林の方に行った。見上げるとそこには仄かに色づいた青梅の実が鈴なりになっていた。まことは手を伸ばしてまだ青い梅を一個ちぎってかじってみた。「あ、酢っぱ!」その瞬間、あまりの酸っぱさにブルブル!と体が震え、苦しげな不思議な快感を覚えた。 まことゼンが畑仕事している間、この梅林で野苺を摘んだり、蝶々や蛙を追ったりして一人で時間をつぶした。暖かい日なたの下で、のんびりと過ごしていた幸せなひとときだった。

 二、三日経った。裏庭で、ゼンが梅の実を洗っていた。まことは近寄って、日に干されたザルの中の梅を見て不思議に思った。「婆ちゃん、どうして梅には割れ目があるの?」「ん…」「どうして中まで赤く熟れないの?」祖母は孫の質問に何とか答えようとしたが、まことの納得するような答えをすぐには思いつかなかった。「うーん…さあー、どうしてじゃろうかねー…婆ちゃんにもよう判らんばい」何度も頭をかしげながらやっと答えた。まことの質問は素朴だが、何か大切な意味が含まれている気がして、決していい加減には答えられなかった。


小説ポチよ 泣かないで
T少年編
第1話
 おわり


第1話

第2話

第3話
 つづく

 U青年編つづく  

 

小説 ポチよ 泣かないで

第一章 少年編

苦悩の少年は忠霊塔「暗闇」に誓う
英霊ウス訓練場へ導かれていく

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