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巨大な犬 英霊の願い を背負う少年期回想記 |
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風の記憶 昭和二九年、狛犬の地形の前足にあたる小さな海岸沿いの村に、「今井 信(まこと)」という男の子が生まれた。まことは物心がつくようになると、長男の紀生(のりお)のあとを追ってヨチヨチと歩くようになった。私のりおは九歳年下のそんな弟が可愛くなって、(いい遊び相手になるぞ・・)と思い始めていた。 やがてまことが六歳になった時、彼の未来を暗闇に引きずっていくきっかけとなる、ある不思議な事件が起こった。 その日は足元から底冷えする寒い朝だった。「のりおー!」母のチカが妹の授業参観に行く為に着物に着替えて二階に上がって来た。 階段を上がって左側は姑(祖母ゼン)の部屋で、右側は長男ののりおの部屋であった。「のりおー、母さん出かけるからね。あと頼んだよ」試験勉強中だったのりおは「うーん」と生返事をした。チカが襖の前でふと振り返ると末っ子のまことが、ゼンのタンスの前にポツンと座っていた。「あら・・?」チカは、まことの様子がおかしいのに気がついて、しばらく見つめた。まことは、自分の膝を抱いて丸くなり寒さに耐えていたが、ブルブルと小刻みに震えて歯をガチガチさせていた。「おかしかねー・・・のりお、ほら、ちょっと見なさい」「うーん?・・あ・・」のりおも覗き込むように見ると、いつもはゼンの部屋で元気に遊んでいる筈のまことが震えていた。「のりお、あんた、火をおこしてコタツ にまことを入れてあげなさい」「うん」 チカはのりおに細かく指示して頼むと、妹かつえの授業参観にすぐ出かけていった。 やがてのりおはジュウノウに赤い炭火を入れて持ってきた。瓦コタツの中心に炭火を丁寧に移すと、上から掛布団をかけた。「よし、出来たぞ、さあ、まこと、入れ!」まことは滑りこむように布団の中に潜り込むと、まもなく安らかな表情になった。 それを見届けたのりおも、すっかり安心して、襖を静かに閉めると隣の自分の部屋で勉強を始めた。 しばらくして、体がぬくもってきたのかまことは心地よい幸せを感じていた。布団から顔だけ出してしばらくぼんやりと天井を見て空想にふけっていた。だがこの日、異様な冷たい霊気が部屋を包んでいた。 炭火の入った瓦コタツを強く抱いて丸まり、恐怖の思いを必死に忘れようとした。 闇の中にくすぶる赤い炭火を見つめながら、ただ心臓だけが「ドキン・ドキン・・」と早鳴りに脈打っていた。(兄ちゃーん、助けて・・)だが何かが喉にふさがり、その声はかすれてかき消された。 部屋に漂う恐ろしい霊気に取り囲まれてしまうと、逃げ道を失った袋の鼠のように身動きが取れなくなった。もはや誰も助けを呼ぶこともできず、あきらめてじっと耐えていたが、次第に意識が薄れていった。まことは不思議な息苦しさの中で、いつしか心地よい深い眠りの世界に入っていった。 どの位の時間が過ぎたのだろうか・・まことは日なたで猫と遊んでいる夢を見ていた。その頃、母のチカは、妹のかつえの授業を参観していたが、何か激しい胸騒ぎを感じて、途中で教室を抜け出して早めに帰って来た。家に着くなり、二階から子供のうめき声がするのをかすかに聞いた。「まことの声やろか・・・?婆ちゃん、まことは何ばしよるっちゃろうか・・?」「うーん?・・・」はしゃいでいるのか、もがいているのかわからない、何か聞いたことの無い不思議なまことの声だった。「たぶん・・また猫と遊びよるっちゃろう・・・どれ、あたいがちょっと見てこようか」 ゼンがおそるおそる二階に上がって見たが、布団が一枚あるだけで辺りはシーンと静まりかえっていた。 (あら?、おらん・・)孫が隠れていそうな布団を見つけ、静かにめくってみると、肌が全身桃色に染まって丸くなっている孫の姿を見つけた。「まことー」何度も声をかけたが、全く目を覚まさなかった。肩を軽く揺すった時、まことの体は力無く崩れた。グッタリとなっている孫の異常さに気がつき、ゼンは咄嗟に抱えあげ、近所に聞こえるような大きな声で叫び続けた。「ああ!まことー!まことー!・・・チカさん!チカさーん!」 チカはまことを背負って慌ただしく玄関から駆け出した。近くの橋に差し掛かった時、突然海の方から冷たい風がピュウゥゥー・・と強く吹きつけた。まことを包んでいた暖かい靄(もや)を一瞬に吹き散らすかのように、チカの背中を通り抜けていった。その冷気で、かすかにまことの意識が戻り、母の背中に背負われて何処かに向かっていることがぼんやりとわかった。体が冷えて、ゾクゾクと寒気を感じた途端、急に激しい痙攣(けいれん)が起きて、全身がガタガタと激しく震えた。(あっ生き返った!この分ならきっと助かる・・)チカは背中から伝わる命の反応にひと安心した。わずかの時間、息を吹き返したかに見えたが、橋を通り過ぎるとすぐにまた意識が遠のいていった。首の据わらない赤ん坊のようにグラグラと頭が揺れるたびに、うつろな半眼の目に映る家並みの景色は、激しくぶれるカメラの映像のように揺れながら通り過ぎていった。 |
霞の世界 近くの病院は、あいにく先生が往診中で留守だった。(こんな時に、困ったね。仕方ない・・)「よいしょ」とまことを背負い直すと、もう一軒の病院に向かって再び走りだした。この道はいつも通ってる筈なのに、今日に限ってまるで雲の上を歩いているように中々進まなかった。それでも夢中で走っていると、やっと病院の看板が見えて来た。チカは慌ただしく戸を開けて中に入った。「先生!子供をお願いします。息子が・・」事故のいきさつを急いで話した。 診察台に寝かされたまことは、二本、三本と続けて注射を打たれたが、まるで死体に針を打つかのように全く反応が無かった。(もう駄目かも知れない・・)チカは諦めかけながらも必死に祈っていた。 やがて五本目の注射が打たれた時、まことの体がピクリと動き、かすかに目を開けた。 霞んだ視界に心配そうに覗き込む母がいた。「あ、気がついた。良かったー・・」 意識は戻ったものの、頭がぼんやりとして、何だか違う世界に入り込んだ感覚だった。「ここ どこ?」キョロキョロと見渡した。「ああ、もう大丈夫ですよ・・。お母さん、どうやら入院する程ではないでしょう」先生もほっとして笑顔で言った。
一方、祖母のゼンは、(ひょっとしたら、この子は脳に大変な致命傷を受けたかも知れない・・)と、何かとてつもない不安な気持ちがよぎっていた。だが全ては、その後のまことの様子を静かに見守るしかなかった。(この子は知恵遅れになるかも知れん・・・)
さまよう猫 まことがガス中毒事故に遭う前の鮮明な記憶があった。幼稚園に入る頃に、雨漏りがひどくなった古い家を立て直すことになった。 ミーはそれから二ヶ月の間「安住の家」も「主人」も失った野良猫になった。忠霊塔の下のヤブの中をさまよい歩いた。家と主人が分裂した二つの家の間を、疲れ果てるまで何度も何度も行ったり来たりしながら探し求めた。主人のいない暗闇の空き地と意地悪な猫のいる家、どちらに行っても寂しく怖い別世界の空間であった。行き場を失い、暗闇に怯えながら、お腹を空かしては「ニャーオー、ニャーオン・・・」と真夜中に主人を求めて何度もないていた。 主人が移っていった家は、既に別の飼い猫の縄張りであり、「喧嘩に負けてしまったミーは、もう二度とその家に入ってはならない」という、猫の世界の厳しいおきてがあった。
やがて新築の柱の骨組みが出来て、棟上げの餅が屋根の上から四方にまかれた。まことは、近所の人たちが集まって餅を拾う姿を不思議そうに見ていた。 家はまだ未完成で畳もまだ敷かれてなかったが、母チカの提案で新築の家で正月のモチをつくために、まことたち家族みんなは大晦日に早めに戻ってきた。ゼンは手伝いに来たおばさんと二階の部屋で荷物を片付けていた。まことはその様子を後ろでぼんやりと見ていた。そのとき、階段の下の方に何やら静かに現れた生き物の気配を感じた。「ん…」 まことはそーっと近づき階段の上からのぞいた。痩せこけたミケがまこと見上げていた。(あっ、ミーだ。ミーが帰って来た!)、まことの顔を見上げると一声かすかに鳴いた。ミケはまことを確認すると警戒しながら力を振り絞って一段上がった。ゆっくりと一段ごとに休みながら上がろうとするが、途中で滑って落ちそうになった。体力がすっかりなくなっていて一段の高さがとても辛そうだった。「ばあちゃん!、ミーが戻ってきたよ。」 まことは、嬉しくてたまらず、ゼンに向かって叫んでいた。心の底から喜びが溢れていた。(頑張れ!ミー、もう少しだよ)まことは心の中で励ましながらあがって来るのを待っていた。 いなくなったミーが、ガリガリにやせこけて戻って来た。2ヶ月の間、野良猫の苦労を重ねて、ボロボロにやつれていた。最後の段を自力で上がりきると新築の新しい床の臭いを嗅ぎながら、目をキョロキョロさせて、おそるおそる近寄ってきた。確かに元いた場所に、再び主人たちの同じ顔ぶれを確認すると、ゼンのひざに頭をこすりつけて来た。やっと安心したようにゴロゴロと喉を鳴らし始めた。「あらーミー、よう帰って来たねー。」ゼンは頭を撫でた。すっかり軽くなったミケを抱えて驚いた。まことがミーを抱えるとすっかり軽くなっていた。毛並みもゴワゴワに荒れて戻らなかった。「あ、こんなに軽いよ」「おお、ほんにこげんやせてしもうて・・・こりゃーご飯はずーっと食べ取らんばい、…かわいそうに…ねー」ゼンはすぐに台所に行って混ぜご飯で栄養のあるおかゆを作ってあげた。 その後、ミーは元どおりの健康な体を回復していった。子供を何度か産んで母親にもなった。放浪癖の息子のチョンとやせっぽちのミー2世が残った。 ポ チ
やがて汽車が近づいて来た時、ポチは改札口をあきらめて、駅舎の横から線路を横切ろうと走って来た。既に汽車は目の前まで来ていた。「危ない!ちょっ!」誘導していた駅員に大声で怒鳴られ、ポチは驚いて慌てて又引き返した。危機一髪で敷かれるところだった。 だが、忠霊塔の丘を登る道に差し掛かった時、突然柵が前方に現われた。「キャイーン!」「あっ!」柵に激しくぶつかったポチの姿はそのまま見えなくなった。「ポチ…!」汽車はカタカタと容赦なく過ぎ去って行った。(あれからポチは、果たして無事に帰ったやろうか…)まことは汽車に乗っている間、ずーとポチのことが心配で仕方が無かった。親戚の家に行ってからも(今頃ポチはどうしてるやろか…)と頭によぎるのだった。
すぐに玄関から表に飛び出したが、ポチは狂暴に吠える野良犬たちがたくさん入れられている鉄格子の檻(おり)の中に袋から乱暴に投げ入れられた。突如、目の前に現れた狂犬病の大型犬に囲まれ、いきなり吠えかかられた。「キャイン!キャイーン!」ポチは驚いて恐怖の叫び声をあげた。檻の隅っこに逃げこむとブルブルと震えながら外に逃げようともがいた。まことが心配そうにポチに近寄ろうとしたとき、車はたちまち少年をふり切って逃げ去るように、排気ガスの煙をブルルーンと吐き出して走り去った。「ポチー!」後を追って来た小さな主人の姿を見つけたポチは悲しそうな目で「ワオーン」と一声吠えた。 必死に追いかけてついていったが息切れして、とうとう車に追いつけなくなった。公民館の前で立ち止まったまことは取り残され、ポチの姿が小さくなるまでいつまでも見送った。 その日を最後にポチは遂に帰って来ることはなかった。 黒い影 ある日、まことは遊びに来ていた近所の男の子に怪我をさせてしまった。「あ、痛い!」耳から赤い血がしたたり落ちた。その子は耳を押さえて泣きながら自分の家に帰っていった。まことは(たちまち、その子の親たちが怒鳴り込んで来る…)と思い込み、咄嗟に浜辺に逃げていった。
電柱の明かりの下で立ち尽くし、自分の影を見つめてぼんやり時を過ごしていた。叱られるのが怖くて、いつまでもためらっていたが、(怒られても仕方がないか…)と急に思いを変えて家に帰っていった。 手ぬぐい まことはいつも祖母のあとばかりくっついて過ごしていた。ゼンが映画を見に行く時も、ツワやツクシを取りに行く時も、いつもゼンの行くところ、どこにでもついて行くのだった。 学校から帰って来るとまことはすぐにゼンの姿を探しまわった。家の何処を探してもいない時は小屋の後ろを見た。リヤカーがないことを確認すると、すぐ裏の忠霊塔の丘に登っていった。 そこから見下ろす畑の中にゼンの姿を見つけると「婆ちゃーん!」と大声で叫んで手を振った。遠くで手ぬぐいを被ったゼンが驚いて振り返ったが、茫然と立ち尽くしたまましばらく動きが止まった。 ゼンには、戦死した息子の芳喜が忠霊塔から突然抜け出してきて叫んでいるように見えたのだった。ようやくその姿が孫のまことだと気がつくと、安心して(おいでおいで)とやさしく手で招いた。 信号も無い危険な踏み切りの線路を横ぎって、畔(あぜ)道を抜けた。小川沿いの曲がった草の生えた道を更に走って行くと、遥かな丘の畑の中に小さく人影が動いているのが見えた。まことは白い手ぬぐいを被った人影がゼンだと確認すると小さな体で力いっぱい走って行った。 「婆ちゃーん!」「あらっ!」ゼンは驚いて振り向いた。しばしクワを持つ手を止めてニッコリ笑った。「あらっーまこと、あんたひとりで来たとねー」「うん」「ほおー、ようここまでひとりで来たねー」ゼンは鼻の頭に噴き出した汗を手ぬぐいで拭きながら、腰を降ろしてひと休みした。思い出したように、エプロンのポケットから、黒い大粒のアメ玉を出して差し出した。「ほら食べなさい」「うん」 まことはしばらくアメ玉をほおばりながら、再び畑仕事を続けるゼンの傍で、二匹の紋白蝶々が野菜畑の大根の花の上をヒラヒラと楽しそうに舞うのを、飽きもせずにぼんやり見て過ごした。 やがてその蝶々もいなくなると、まだおぼつかない手で重いクワを持ちあげ、その辺の土手をむやみやたらに掘った。「これ!、もうすぐ終わるけんね、その近くで遊んでなさい!」「うん」 T少年編 第1話 おわり |
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英霊にウス訓練場へ導かれていく |